その他の話題

生きるために生きるのは夢の中を歩くようなもの<2>

Pocket

「なぜ生きなければならないの?」は、「なぜ頑張らなければならないの?」に繋がっていきます。生きる理由 ―つまり使命― が見当たらなければ、人は漫然と、そう、動物のように、「死を恐れて」生きるしかありません。

生活のために働き、時間に追われ、楽しみ、暮らす。
ほとんどの人がそうしていることでしょう。
何の疑問も持たずに。
そして、それが当たり前であるようにです。

ただ稀に、そんな漫然とした生き方に苦痛を感じる人があります。

楽しければいいじゃない、と考えられたらどれほど楽でしょうか。
一握りの楽しみのために多くの苦労がいることを、
どのようにして耐えて行ったらよいでしょうか。


人としての目覚め

このように疑問を持ち、動物のように漫然と生きられない人々は、ある意味真に人として在ることが出来ていると言えます。

「なぜ皆何も考えずに、なんとなく生きられるのだろう」

もちろんそれは、庇護されて育った子供が、飢えて死にそうになる恐怖や、外敵の危険にさらされて命を脅かされる経験がないため、とも言えるでしょう。それまで安全に育ってきて、それ以上の危険に遭う前に、良い体のまま楽になりたい(死にたい)というのは、ずいぶん虫の良い話です。

それは、他の人は苦労したとしても、自分だけは楽なまま、何もつとめを果たさず死んでしまいたいという、とんでもなく身勝手な発想、とも言えます。

しかし、ただでさえ辛い人に、それ以上つとめを強いるのは酷というもの。


拭われない辛さ

人間も動物ですから、「何かなければ」生死を検討するようなことは起こり得ません。

何か―それは、過度のストレスです。

しかし、人々の自殺を予防するためにと言って、このストレスの発生自体を防ごうとすることは不可能であるばかりでなく、ナンセンスです。

何故なら、このストレスの発生こそが、人を進化させる重要な要素だからです。

ストレスに対して人は思考します。
死にたいと思うまでに至って、そうして思考することが、人としての目覚めには大切なプロセスです。

ストレスに勝つだけの答えを得られれば、それは生涯の宝となります。
漫然と生きる、あるいは死を恐れるだけの動物を卒業して、信念を持った真の人間へと孵化を遂げていきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です