11月23日は勤労感謝の日ではなく、本来「新嘗祭」という祭日であることは認知されてきたように思います。「食物に感謝する祭」・・・このように解釈している方が多いかと思いますが、正しく現代の言葉に置き換えると「謝命祭」すなわち命に詫び尊び授かる祭、となります。
11月22日、夜。
ほぼ寒行と言ってよい、極寒の中でこの神事は行われます。(私たちがこの神事を何と呼んでいるのかは敢えて伏せておきましょう。大切なのは言葉ではなく中身だからです。)
暗闇の中、神職たちが木の棒を並べています。
衣擦れの音と、棒の重なる音、風に揺れる木々の音しか聞こえません。
やがて、祝詞が唱えられはじめます。それはご存知の通り、古い日本語です。
暗闇には私のほかに、同じように神事に参列する人々があります。
白衣袴を身に着けた姿で正座し、一同じっと聞き入っています。
長い間、繰返し繰返し祝詞が唱えられました。
ここまで終わったところでは、私たちは何も感ずるところはありません。
不思議な神事だったなというくらいの感想でしょう。
終わりますと、いつもの食堂で、いつもの斎飯を案内されます。
斎飯とは、ご飯、お味噌汁、沢庵という食事のことです。
いつものように和歌を唱和して、決められた作法で頂き始めました。
そして、数粒のご飯を口に入れますと・・・
なんと、えも言われぬ悲しい気持ちになるではありませんか。
まるで我が子を食べられてしまったような辛さが込み上げてくるのです。
他の参列者を見ますと、すでに涙している人々がいます。
皆が同じように感じたのでしょう。
宮司様はその感情を敢えて口にはせず、
「今こうして感じたことが、この神事の中身なのです」
と仰いました。
ご飯はお米、すなわち稲という植物の子供です。
植物たちは、美しい花を付け、嬉しそうに実を結び、力を実いっぱいに注ぎます。
同じくどのような人にも、人生をかけ、愛情をかけ、育ててきたものがあると思います。
もし、これを奪われ、壊されてしまったら…?
人によっては怨念すら覚えるのではないでしょうか。
ところが「食べる」という行為は、まさにそのものだったのです。
「痛みを知る」
この感覚が鈍くなると、人は、人を殺すことも奪うことも何とも思わなくなります。
親や師を殺しても平気に思い、自分の命も大切にはできず、
当然、中絶にも性犯罪にも罪の感覚は浅くなるでしょう。
快楽のためだけに生き、結婚も意味の無いものと感じるでしょう。
しかしこの感覚は、頭で「知る」ものではありません。
胸に心に落とさなければならないものです。
では、人々はすべてこの神事を体験しなければならないのか?
そうではありません。
陛下が日本人の中枢、魂の柱としてこれを行われる意味とは、そこにあります。
神事は、つながる魂に浸透する性質を持っています。
だからこそ、御即位の際には大嘗祭として特別に行われるのです。
しかし人々は忘れます。
毎年毎年、これだけは欠かしてはならない。
当然、寒行だからと服で代用して良いものでもありません。
これは「命の秩序を保つ祭事」でもあるのです。