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欧州で働く日本人男性が、ある恥ずかしい事態に遭遇したという相談がありました。
これはたいへん残念なことに、日本という国の遅れを痛感する出来事となりました。

例えば、日本には消防団という自主防災組織があって、消防署の到着前に被害を食い止める役割を担っています。それ自体はとても良いことなのですが、所属している若者の話を聞くと「売春じみた店に連れていかれた」という話をよく耳にします。本人の意思と関係なくです。
冒頭の男性はまさにこういった「日本的な」感覚で同僚を歌舞伎町に案内したところ、観光写真を見た欧州の上司から、ずいぶんきついお怒りを買ってしまったということでした。

「その上司は潔癖だから・・・」果たしてそうでしょうか?
日本人は、その「汚れ」の本質について考えたことはあるのでしょうか。

痛みを理解するという高等教育

母子手帳を受け取ると、病院などで出産に関する教育”のようなもの”が行われます。
しかしその中身は、ほぼ手伝う側の都合。母体の痛みや苦労に配慮した記述はありません。機械的で冷ややかです。私がお産のためのレイキセミナーの必要性を感じた理由はここにあります。

私はレイキのおかげで助かったのですが、病院は悲鳴で溢れていました。それほど、出産とは想像を絶する激痛であり、それに至らせる行いはすなわち暴力なのです。売春とは野蛮な行為であり、それを容認する社会もまた野蛮な国。欧州の男性上司の意識から見えたのはそんな感覚でした。
おそらく先進国社会では出産とその痛みに対し敬意を払うための教育と、男性がその現実に目を向けられる強靭な精神を育む教育がされているということでしょう。食べ物への敬意は払えるのに、女性の痛みに対してなぜ敬意を払わないのだろうと、彼らは疑問に思っています。

現実を直視できる強靭な精神へ

ある出産を控えた女性が、立ち合い出産をして(ショッキングな現場を見て)男性が委縮してしまったらどうしよう、と相談されていました。
いえいえ、現実を直視できないような軟弱な精神のままで、家庭や国を守れるでしょうか。
そして当の女性も、痛みの記憶を共有できない寂しさに耐え、恨み心を持たずにいられるでしょうか。
日本人女性もまた、男性に対して遠慮しすぎか過保護すぎるのです。
強い男性とは、女性に礼儀正しく潔癖なのです。

食べることは、現実的に命に対する暴力であることは何とか理解できるはずです。殺して食べているという現実に対し、最大の礼を尽くす。これが食べ方の作法というものです。
新たな命を授かるために、女性だけが痛みを背負うという現実もまた暴力です。しかしその現実を受け入れられず子孫を設けないのではなく、深く理解共感したうえで礼を尽くすのが正しいのです。今の日本の社会構造は、こうした礼を尽くすには程遠い構造をしています。社会自体が命を迎えていないのです。

売春への警鐘は、韓国というかわいらしい国が鳴らし続けてくれていたように思います。遠い古代にはなりますが、韓国には日本から姫が嫁いでいますので、実際日本人の血も分けた国なのです。神々の視点から見れば、この姫神が民を使って慰安婦問題と突かせて、母国の過ちを一生懸命諫めていたようにも感じられます。
つまり、その汚点に気付かず持ち続けるならば、それは男性の精神の弱さを示す弱点にもなり得るものぞ、ということです。