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今年9月の日本農業新聞をたまたま見かける機会がありまして、ふとこんな社説が目に留まりました。

「日本人は古来から天変地異に深い畏れの念を抱いてきた。神道の祭祀で唱える祝詞もその一つ。」

ん、もしやと思い読み進めてみると、

「その中にある『天津罪』は、田のあぜを壊す『畦放』、水路を埋めてしまう『溝埋』といった罪を挙げる。身を清め荒れる神々をなだめる祈りをささげることで、災難が降りかからないことを願った。冷夏懸念、酷暑、この前線による豪雨と長雨。祝詞には人が犯す『国津罪』もある。森林破壊や地球温暖化への警鐘であろうか」

案の定…。


「誰」から「誰」に対する罪か

「天空を司る神様が怒って、人間である私たちに環境を破壊するという罪を行っている」と解釈してしまっていないでしょうか。

そもそも古典の「天」は、古き代の宮中や政界つまり朝廷を示し「国」は地方や民、その後の代を表しています。時が神代から次第に下って法律が整ってくると、現代に民法と刑法があるように天津罪を環境破壊の罪、国津罪を人命に関わる罪として分けて裁かれるようになりました。

現代でも農業を行っている人同士が諍いを起こすと、水路を埋める嫌がらせをしたり、畦を壊して困らせたりするというようなことがあります。「つまり農業において迷惑を考えない怒りっぽい人がよくやってしまうこと」が天津罪というわけです。

よって、祝詞(大祓詞)にある罪の段はどちらも「私たち」が「私たち」に対して行ってしまう可能性のあること、またはしてしまったことであり、祝詞はこれを祓い清めるためのものということなのです。


天災への効果「身を清める」ことの本当の意味

祝詞を単に呪文のようなものと考えて祈るだけで、肝心の自分たちの生き方が清められていなければ、神々は何の力も振るうことはできません。祝詞は神々を直接宥めるような効果のあるものではないのです。

災害は神々という「他者」が鎮めるものではなく、人々に内包する神が目覚めて「自己」と天地自然が呼応するようになって無事が実現するものです。これを目覚めさせるために、正しく清らかに、神の心(大御心)に適う生き方をするわけです。

罪が清められずほったらかしにされると、人間は自然との無意識的な繋がりが薄くなり、自然の活動が分からない=不運の状態となりますが、幸運な人の場合はごくわずかな差によって被害を免れていたりします。そもそも天災とは押さえつけるのではなく清められた人体センサーを使って乗りこなすものなのです。

祝詞の優れたところは、内容的には過去の事を述べているに過ぎないにせよ、それがきちんと人々の遺伝子に伝わって目覚めを後押ししてくれるところです。神事においても有効な植物のエネルギーで神経の状態を整えてから始めるところも、実によくできています。声、言葉、植物などのエネルギーを巧みに活用して、秩序ある人々を作り出して来たのです。